2010年5月21日金曜日

夜間外出禁止令第2夜 お勉強
























伊勢丹は無事な様子である・・・・その同じ建物の逆側のセントラルZENは
崩壊しているのに何故か?何故なら、この建物は伊勢丹側が先に出来て
いて、その後セントラルがその逆側を大きな吹き抜けに改装したからである。
あの吹き抜けが仇になったのだろうか?あんなタイヤ燃やしただけで、
あそこまで燃えてしまう。

その他、都内30箇所以上が燃やされた。サイアム映画館は立ち直るの
だろうか?

今回、デモ隊がシーロムに入ろうとするところで軍隊は阻止に出たが、
ラジャダムリ沿いやその横のウィタユ沿いには大使館が多くあり、
アメリカも日本もあるのであるが、この軍隊がデモを阻止した場所の
境界はひとつの議論を後々生まないか?なにしろシーロムには、
バンコク銀行の本店がある。首相の支持基盤だと聞く。

こうした時間を勉強に費やすと色々と新しいことが分かってくる。
近代タイの歴史は、まともな政権交代が非常に少なかったようである。
ある時点においては、海軍がクーデターの主体であり、ある時代から
陸軍がその主体になっている。共産主義が流れ込む1970年代には
学生のからむ大きな流血事件が起こっている。

今の王様は、チャクリ王朝第9代目の王様である。第5代目の王様
は、(王様と私)という映画で元祖スキンヘッドのユルブリンナーが
演じたタイ国近代化の上で最も大きな役割を果たした王様である。
(チュラロンコン大王)
この王様は、当時タイ領であったラオスやカンボジア、マレー半島の
一部をイギリス、フランスに割譲すると共に、周囲の国にはない近代的
中央集権国家を樹立し、タイの植民地化を防いだというお方である。

そうしてみると、タイの領土はこの頃もっと多かったのか?と思われる
がその基礎を築いたのは、今のチャクリ王朝の前の、トンブリ王朝
の王様、タークシン王である。1700年代半ばのことだが、この王朝
はタークシン王一代の王朝のようだ。軍才に優れ、たちまちラオス、
カンボジアを領土にしてしまったのである。チャクリ王朝の第1代王は
この人の腹心であったが、晩年にタークシン王が乱心し、クーデターで
王朝が代わったわけである。

我々日本人からみれば、タークシンもタクシンも一緒だが、
共通点を羅列すると、
①タークシンはもともとシンという名前で、タイ北部のタークという
国の王であったから、タークシンと名乗った。
②しかしタークシンもタクシンも、日本人からみればあまり変わらないが
綴りがほぼ全然違う。田中さんと棚加さんくらい違う。
③タクシンは広東省出身の華僑 客家であり、タークシンも広東省出身の
潮州系の華僑である。
ちなみに出身は一緒であるが、客家は正当な漢民族として
言葉も、生活様式も一線を画した状態で、中国の政変のたびに
移住を繰り返してきた人々である。タクシンさんは、華僑から、
タイに同化したこの客家の流れを組むが、客家とはちなみに
客人であり、その地に馴染まぬものという意味もあるようだ。
④タクシン チナワットのチナワット家は、北部華僑の名家であり、
賭博上の税徴収をしていた丘氏の孫がタクシンさんである。
一方のタークシンのお父さんも賭博上で税徴収の仕事をしていた。
この仕事は一体どういう仕事なんでしょうね?
⑤どちらも、華僑をうまくまとめて政権についたところは似ている。
タークシン王は華僑をまとめて、ラヨンで兵を起こしている。
⑥タークシンは華僑であることを後々恥じて乱心したが、タクシン
さんは、むしろこれを元に、中国との関係を深めたし、タクシン政権
には数名の共産党員がいた。

お勉強はこれで終わりましょう。タクシンさんもタークシンさんも、
共通点は多いみたいです。

平和、これを早くお願いします。

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