2012年7月21日土曜日

英語

最近、自身の英語の上達というものを感じている。
 
 やはり必要性があると、どうしてもそうなるものなのだろうか?英語でメールをつくり、英語でプレゼンを作成し、人前でタドタドシク発表し、そんなことを繰り返していくうちに、どうやら診断君も、バイリンガルとして、何とかよちよち歩きを始めたようである。
 
 日本人同士で話をするときも、タイ人と話をするときも、何故か英語の表現のほうがしっくりいくときがあったりして、思わず英語が入ったりして、なるほど、桑田啓祐もこんな感じで、英語を歌詞に交えたりするのなかな?なんて思ったりもするのである。

 会社の中で、タイ人がいて、ドイツ人がいて、インド人がいて、日本人がいて、そうした環境で、皆で英語でコミュニケーションしつつ、お互いの間で起こっている不満については、皆母国語に戻って、話をしている。私は会社で唯一の日本人なので、タイ語で、他の国の人間の悪口に付き合っているという状況である。
  
 何ヶ国語も話をするとして、やはり、母国語というものは大事で、脳の中の思考は日本語で色々と考えているとは思うのだが、こうしてブログに記載して、脳の中の液体のようなものを、ぼんと対象において、そうして眺めてみると、マダマダ考えていることとかけ離れているような気がするので不思議である。まして、これが、どんな主題で書こうと、まったくプロットを考えていないような文章であればなおさら、頭からとりだしては、眺め、次を考え、またそれを取り出しては、眺め、その次をひりだし、そうした感じでどこかで、吐き出した文章のどこかとどこかがつながるときがあって、それをもって起承転結となし、何とか文章まとまった、こんなことはよくあることである。

 ここで英語に戻ると、なんにせよ外国語を話すときは、自国語ではないので、最低限に伝わるであろう表現を探し、相手に伝えようとがんばるわけであるが、日本語と英語では、文法が逆であるために、なんとも言えない、シンプルとは言えない、文章になってしまい、仕方なく、短いセンテンスを羅列するしかなくなってしまう。ただし、相手と喧嘩したりするのと、相手にわかってもらとうと話をするのでは、相手と喧嘩をしようとして外国語を駆使することは非常に簡単だ。わかってもらおうとすればするほど、意味が不明になる。相手も、おそらく、色々な表現をつかって、様々な事例を用いて、説明してくれるのであるが、そんな他の話を持ち出されると、ますます、理解を拗らせ、お互いが膠着状態に陥ってしまう。

 その点、相手と喧嘩使用と思えば、実に滑らかに、言葉が出てくるものである。昔辞書で一度しか引いたことのないような単語まで、思い出され、相手に対して、確実にダメージを不快感を与えることが出来る。ああなるほど、斯くのごとくにして、異人種は、異国の人間同士は、昔から戦争したり、殺しあったりしてきたのに違いない。お互いが、互いの母国語でない世界でコミュニケーションをとって、そうして、どこか納得のいかないまま、一緒に仕事をしていくのであるから、それを白黒はっきりしようとする手段は、喧嘩しかなくなってしまう。しかしながら、それでは同じ母国語ではどうであろうか? 話せばますます分からなくなる。そんな結論を、診断君は密かに結論づけているわけである。