2013年8月1日木曜日

映画鑑賞

 タイに来て、めっきり映画を見なくなった。映画館で見たとしても、基本英語にタイ語字幕という奴で見るのである。最近は贅沢になり、プラチナシートとか、ハネムーンシートとかそういう、一組1000バーツ(役3000円)以上する席で見ているが、普通の席でなら100バーツ(約300円)と非常に安い。いつも思うのは、映画館が結構ガラガラなことである。どこに行ってもすぐに席がとれるし、なんか非常に人気がないような気がするのは診断君の気のせいであろうか?その割に、映画館は、豪華であるが。
 
 ともあれ、非常に座り心地の良い席のお蔭で、リクライニングしたまま寝てしまうこともしばしば。目の前で、地球が滅亡しかかろうが、ブルースウイリスが転覆した船の底で溺れかかっていようが、スパイダーマンのマスクがどれだけ破けようが、どれだけ残酷な殺人が行われ、どれだけ遠い宇宙を旅していいようと、どんな寄生虫が主人公に宿り、必死で吐き出そうとしていたとしても、寝るときは寝る、鼾もかく、涎も垂らす、寝言、歯ぎしりエトセトラ。ましてシリアスな内容重視のものや、社会派サスペンス、恋愛ものなどは最初から観るのを諦めている。

 診断君もタイに来て、随分と落ちたものだ。かつて、大学の文学部国文学科を卒業し、卒業論文は太宰治であった。(その研究で有名な渡部先生からAを貰ったのであった。5年目ではあったが!)映画サークルでも、もっとも熱心な部員であった。なけなしのバイトのお金で、誰よりも早く、ハイファイ(ワイファイではありません)ビデオデッキを購入、サークル部員と休みの日には、4本から5本のビデオをレンタルし、鑑賞に次ぐ鑑賞、議論に花を咲かせ、さあ腹が減ったなと、デニーズ、吉野屋、マクド、王将、長崎ちゃんポンと、外食評論にも花が咲いたものである。お蔭で、その頃から後天性若年メタボ障害を発症した。

 いや、とにかく、診断君は、よい映画というものを見なくなった。本も読まなくなった。ただひたすら、金もうけにいそしみ、本当にストーリーというものを摂取しなくなった。あえて読んでいるのは、自分の書いたこの診断君ブログだけになっちゃった。

 最近、先輩に再会して、そろそろまた、映画を色々と見漁ろうとは思っているのである。

 今日のこの文書は、そういう映画ネタのハシリのところであるから、あまり深くは書かないが、結局のところ、診断君は、黒澤明が好きである。その中でも、「天国と地獄」「赤ひげ」であろうか?

 結構診断君は、涙もろい方で、どうでもいい時に何故か涙が出てきて困ってしまうことがある。そういう時には、あ、ちょっとドアライアイ....とか言って、軽く目をぬぐうが、本当に感動した映画については、そういう涙ではない。なんというか、肩で泣いてしまう。嗚咽を堪えるというか、そういうこみ上げてくるものを、医学的にどう説明するだろうか?

 なんか、何に悔しいんだか、何を怒ってんだか、ひどくこみ上げてくるものがあって、反面ちょっとしたナルシズムすら感じる、人の作った作り物の話に、ここまでなるものかと、更にため息をつく、そういう映画は、やはり、どうしても自分の好きな映画とせざるを得ないが、しかしその一方で、そうちょくちょく見るのは、疲れてしまう部分もある。 「赤ひげ」は正にそういう映画で、一家心中で死にかけている子供を助けるために、養生所の女たちが、暗い井戸に向かって、力の限りその名前を呼び出すシーンは、愚かしくも、哀れで、何度見ても、一瞬自分を失いそうな、自律神経の喪失を感じるものである。

 診断君の父親はすでにこの世に無いが、よく診断君と、その妹、診断子を連れて映画を見に行ったものである。彼は高校教師であったので、観る映画も高尚なものが多く、何故子供を連れていくか不明なものが多かった。また、そういう映画を見に行き、必ず彼は鼾をかきだし、全体の95%は全く観ていない筈であるが、時代考証どうであるとか、○○の演技は今一と評論しているのは子供心に滑稽であった。

 ある日、古代エジプト王朝の映画を見に行ったところ、彼は、最初の宣伝あたりから就寝、我々子供二人にとっても退屈な内容なので、おしゃべりをしていたところ、傍に、書生風のザンギリ頭の若い兄ちゃんが、「静かにしろよ。君たち」と我々を叱ったのである。すると、我らが鼾親父がむっくと起き上がり、「お前こそ黙ってろ!」と一喝。書生風はどこか他の席に逃げてしまい、鼾親父は、また夢の世界に戻って、鼾をかきだした。

 まったく、いい思い出ひとつない、嫌な親父であったが、この時の記憶は鮮烈で、この時だけは、父親の有難さを思い出し、親の愛情も、彼のファニーな一面も、あの映画館の暗闇の一瞬に全て集約されて、診断君の心に刻まれているのである。

2013年7月28日日曜日

酒に飲まれる

 大学のサークルの先輩で、その時は既に大学院に居られたY先輩は吉祥寺の酒屋の跡継ぎで、酒屋と言っても大きな問屋みたいな感じで、ちゃんとしたビルがあり、配送車も何台も並んでおり、一角の規模のお店であった。
 
 年末になると、サークル部員がそこに集まり、毎年のように忘年会を執り行った。これでもかといういい酒が並び、アテは持ち込みもありの、出前の寿司などもとり、カラオケは今も忘れない、JVCのレーザーディスクに負けてしまった、その頃でもちょっと珍しくなったシステムではあったが、これで夜通し歌ったものである。(確かレコード見たいのが箱に入っていたと思う。)

 映画を鑑賞し、作り、語り合い議論する、文科系のサークルであったが、どう考えても、思い出の7割が、酒の記憶である。よく酒を飲むと、記憶がなくなるとかいうが、酒を飲んだ記憶しかないというのはどういう訳であろうか?

 樽酒というものを、その時飲んだが、あの樽を開けた表面に浮かぶ酒粕、それをよけて升につぐ限りなく澄んだ液体、あれはうまかった。なんという銘柄かは忘れたが、米がここまで澄んだ飲み物を作り出すものなのか?と感動した覚えがある。

 なんにせよ、その頃も大学生が新入歓迎コンパなどで、急性アルコール中毒などで死亡することもあったので、すでにうるさい時代ではあったが、それでも、先輩、後輩の関係は強く、とにもかくにも、飲め、飲め、吐きそうなら、吐いてから飲めと、狂ったように飲んだ記憶がある。同級生に、子供の頃から、喘息の奴がいたが、彼など、よくこの忘年会で死ななかったものである。

 飲み、歌い、騒ぎ、吐き、気を失い、目が覚めると、1月の2日なんてことは何度もあった。目が覚めると、開催場所のオーナーである先輩が、ニコニコと温かい何かを食べさせてくれたか、飲ませてくれた覚えがある。酒を巡る鉄の掟と、年が明けた後の覚醒、癒し、汚れた体で、吉祥寺から、多摩の下宿まで帰る時の、浦島太郎みたいな、実社会への違和感。 ああ全ては20年以上も前の出来事なのである。

 酒は高校の時から飲んでいたし、教室の後ろの方で化学の時間にファンタと宝焼酎を混ぜて飲んで、(その先生が若く、甘かった。)放課後に、酔っ払って泡消火器を倒し、教室を泡だらけにしたこともあった。柔道部の友人H君と、今はもう連絡の取れない親友のT君と焼酎、ビール、電気ブラン??をもって、豊島園に行き、飲んだ状態で、バイキングやら、ねじれながら1回転するジェットコースターにのり、鼻水なのか、吐物なのか、涎なのかわからない液体が体を包みながら、気を失ったりして、まあ、今思うと凄まじいが、酒で記憶がなくなっているというよりは、今もまだ鮮明な思い出である。

 大学に入って、皆に言われたのは、君は酒を飲んでも顔色ひとつ変わらないなということであったが、果たして、これがいいことかどうかは、ともかく、限界まで酒を飲むという環境は、大学に入って更にエスカレートしたことは事実である。

 会社でも、酒というものはついて回っているが、40の手前あたりから、肝脂肪で引っかかるようになり、そんな引っかかり方をすると、飲むたびに肝臓が悲鳴を上げているような気がして、酒飲みのお客さんに、おいどうしたと言われ、最近肝臓の調子が悪いんですよと左の鳩尾をさすると、おい肝臓は右だ、もっと飲め!という具合に、ますますブレーキが利かなくなり、今日に至る次第である。

 酒に飲まれる、診断君はそういう人を沢山見てきた。酒を飲んだがために、翌日は会社にこない、酒を飲んだがために、羽目を外し、常識を逸脱したことをしてしまう、警察の厄介になる、酒を飲んで記憶を失う、飲んでない時でも、失っていく、酒を少しもおいしそうに飲まないのに、酒がなくてはいられない、酒、酒、酒、本当に、こいつには、随分と助けられているが、随分とこれにやられちゃっている人が多いのも事実だ。津波も、洪水も、人間を構成する物質も命も水のなせる業だとしたら、人間の歓喜も、狂気も、人生を快調に滑らせることも、その人の能力を発揮できない障害になることも、全て、酒のなせる業である。

 この年になって、酒のキャリアもつみ、味も分かってきたように思うが、人は年をとればとるほど、苦みをおいしいと感じるようになるという。確かににそうだ。成功体験のある人間は、多分、苦みをおいしいと感じることができる人なのではないか?その酒の苦みの後にくる、眠気や、混濁を求めて酒をのんでいる訳ではないはずである。診断君は、飲み始めの苦みをうまいと感じる、そういう酒飲みでいつまでもいたいと思うのである。