2013年8月5日月曜日

2013年8月1日木曜日

映画鑑賞

 タイに来て、めっきり映画を見なくなった。映画館で見たとしても、基本英語にタイ語字幕という奴で見るのである。最近は贅沢になり、プラチナシートとか、ハネムーンシートとかそういう、一組1000バーツ(役3000円)以上する席で見ているが、普通の席でなら100バーツ(約300円)と非常に安い。いつも思うのは、映画館が結構ガラガラなことである。どこに行ってもすぐに席がとれるし、なんか非常に人気がないような気がするのは診断君の気のせいであろうか?その割に、映画館は、豪華であるが。
 
 ともあれ、非常に座り心地の良い席のお蔭で、リクライニングしたまま寝てしまうこともしばしば。目の前で、地球が滅亡しかかろうが、ブルースウイリスが転覆した船の底で溺れかかっていようが、スパイダーマンのマスクがどれだけ破けようが、どれだけ残酷な殺人が行われ、どれだけ遠い宇宙を旅していいようと、どんな寄生虫が主人公に宿り、必死で吐き出そうとしていたとしても、寝るときは寝る、鼾もかく、涎も垂らす、寝言、歯ぎしりエトセトラ。ましてシリアスな内容重視のものや、社会派サスペンス、恋愛ものなどは最初から観るのを諦めている。

 診断君もタイに来て、随分と落ちたものだ。かつて、大学の文学部国文学科を卒業し、卒業論文は太宰治であった。(その研究で有名な渡部先生からAを貰ったのであった。5年目ではあったが!)映画サークルでも、もっとも熱心な部員であった。なけなしのバイトのお金で、誰よりも早く、ハイファイ(ワイファイではありません)ビデオデッキを購入、サークル部員と休みの日には、4本から5本のビデオをレンタルし、鑑賞に次ぐ鑑賞、議論に花を咲かせ、さあ腹が減ったなと、デニーズ、吉野屋、マクド、王将、長崎ちゃんポンと、外食評論にも花が咲いたものである。お蔭で、その頃から後天性若年メタボ障害を発症した。

 いや、とにかく、診断君は、よい映画というものを見なくなった。本も読まなくなった。ただひたすら、金もうけにいそしみ、本当にストーリーというものを摂取しなくなった。あえて読んでいるのは、自分の書いたこの診断君ブログだけになっちゃった。

 最近、先輩に再会して、そろそろまた、映画を色々と見漁ろうとは思っているのである。

 今日のこの文書は、そういう映画ネタのハシリのところであるから、あまり深くは書かないが、結局のところ、診断君は、黒澤明が好きである。その中でも、「天国と地獄」「赤ひげ」であろうか?

 結構診断君は、涙もろい方で、どうでもいい時に何故か涙が出てきて困ってしまうことがある。そういう時には、あ、ちょっとドアライアイ....とか言って、軽く目をぬぐうが、本当に感動した映画については、そういう涙ではない。なんというか、肩で泣いてしまう。嗚咽を堪えるというか、そういうこみ上げてくるものを、医学的にどう説明するだろうか?

 なんか、何に悔しいんだか、何を怒ってんだか、ひどくこみ上げてくるものがあって、反面ちょっとしたナルシズムすら感じる、人の作った作り物の話に、ここまでなるものかと、更にため息をつく、そういう映画は、やはり、どうしても自分の好きな映画とせざるを得ないが、しかしその一方で、そうちょくちょく見るのは、疲れてしまう部分もある。 「赤ひげ」は正にそういう映画で、一家心中で死にかけている子供を助けるために、養生所の女たちが、暗い井戸に向かって、力の限りその名前を呼び出すシーンは、愚かしくも、哀れで、何度見ても、一瞬自分を失いそうな、自律神経の喪失を感じるものである。

 診断君の父親はすでにこの世に無いが、よく診断君と、その妹、診断子を連れて映画を見に行ったものである。彼は高校教師であったので、観る映画も高尚なものが多く、何故子供を連れていくか不明なものが多かった。また、そういう映画を見に行き、必ず彼は鼾をかきだし、全体の95%は全く観ていない筈であるが、時代考証どうであるとか、○○の演技は今一と評論しているのは子供心に滑稽であった。

 ある日、古代エジプト王朝の映画を見に行ったところ、彼は、最初の宣伝あたりから就寝、我々子供二人にとっても退屈な内容なので、おしゃべりをしていたところ、傍に、書生風のザンギリ頭の若い兄ちゃんが、「静かにしろよ。君たち」と我々を叱ったのである。すると、我らが鼾親父がむっくと起き上がり、「お前こそ黙ってろ!」と一喝。書生風はどこか他の席に逃げてしまい、鼾親父は、また夢の世界に戻って、鼾をかきだした。

 まったく、いい思い出ひとつない、嫌な親父であったが、この時の記憶は鮮烈で、この時だけは、父親の有難さを思い出し、親の愛情も、彼のファニーな一面も、あの映画館の暗闇の一瞬に全て集約されて、診断君の心に刻まれているのである。

2013年7月28日日曜日

酒に飲まれる

 大学のサークルの先輩で、その時は既に大学院に居られたY先輩は吉祥寺の酒屋の跡継ぎで、酒屋と言っても大きな問屋みたいな感じで、ちゃんとしたビルがあり、配送車も何台も並んでおり、一角の規模のお店であった。
 
 年末になると、サークル部員がそこに集まり、毎年のように忘年会を執り行った。これでもかといういい酒が並び、アテは持ち込みもありの、出前の寿司などもとり、カラオケは今も忘れない、JVCのレーザーディスクに負けてしまった、その頃でもちょっと珍しくなったシステムではあったが、これで夜通し歌ったものである。(確かレコード見たいのが箱に入っていたと思う。)

 映画を鑑賞し、作り、語り合い議論する、文科系のサークルであったが、どう考えても、思い出の7割が、酒の記憶である。よく酒を飲むと、記憶がなくなるとかいうが、酒を飲んだ記憶しかないというのはどういう訳であろうか?

 樽酒というものを、その時飲んだが、あの樽を開けた表面に浮かぶ酒粕、それをよけて升につぐ限りなく澄んだ液体、あれはうまかった。なんという銘柄かは忘れたが、米がここまで澄んだ飲み物を作り出すものなのか?と感動した覚えがある。

 なんにせよ、その頃も大学生が新入歓迎コンパなどで、急性アルコール中毒などで死亡することもあったので、すでにうるさい時代ではあったが、それでも、先輩、後輩の関係は強く、とにもかくにも、飲め、飲め、吐きそうなら、吐いてから飲めと、狂ったように飲んだ記憶がある。同級生に、子供の頃から、喘息の奴がいたが、彼など、よくこの忘年会で死ななかったものである。

 飲み、歌い、騒ぎ、吐き、気を失い、目が覚めると、1月の2日なんてことは何度もあった。目が覚めると、開催場所のオーナーである先輩が、ニコニコと温かい何かを食べさせてくれたか、飲ませてくれた覚えがある。酒を巡る鉄の掟と、年が明けた後の覚醒、癒し、汚れた体で、吉祥寺から、多摩の下宿まで帰る時の、浦島太郎みたいな、実社会への違和感。 ああ全ては20年以上も前の出来事なのである。

 酒は高校の時から飲んでいたし、教室の後ろの方で化学の時間にファンタと宝焼酎を混ぜて飲んで、(その先生が若く、甘かった。)放課後に、酔っ払って泡消火器を倒し、教室を泡だらけにしたこともあった。柔道部の友人H君と、今はもう連絡の取れない親友のT君と焼酎、ビール、電気ブラン??をもって、豊島園に行き、飲んだ状態で、バイキングやら、ねじれながら1回転するジェットコースターにのり、鼻水なのか、吐物なのか、涎なのかわからない液体が体を包みながら、気を失ったりして、まあ、今思うと凄まじいが、酒で記憶がなくなっているというよりは、今もまだ鮮明な思い出である。

 大学に入って、皆に言われたのは、君は酒を飲んでも顔色ひとつ変わらないなということであったが、果たして、これがいいことかどうかは、ともかく、限界まで酒を飲むという環境は、大学に入って更にエスカレートしたことは事実である。

 会社でも、酒というものはついて回っているが、40の手前あたりから、肝脂肪で引っかかるようになり、そんな引っかかり方をすると、飲むたびに肝臓が悲鳴を上げているような気がして、酒飲みのお客さんに、おいどうしたと言われ、最近肝臓の調子が悪いんですよと左の鳩尾をさすると、おい肝臓は右だ、もっと飲め!という具合に、ますますブレーキが利かなくなり、今日に至る次第である。

 酒に飲まれる、診断君はそういう人を沢山見てきた。酒を飲んだがために、翌日は会社にこない、酒を飲んだがために、羽目を外し、常識を逸脱したことをしてしまう、警察の厄介になる、酒を飲んで記憶を失う、飲んでない時でも、失っていく、酒を少しもおいしそうに飲まないのに、酒がなくてはいられない、酒、酒、酒、本当に、こいつには、随分と助けられているが、随分とこれにやられちゃっている人が多いのも事実だ。津波も、洪水も、人間を構成する物質も命も水のなせる業だとしたら、人間の歓喜も、狂気も、人生を快調に滑らせることも、その人の能力を発揮できない障害になることも、全て、酒のなせる業である。

 この年になって、酒のキャリアもつみ、味も分かってきたように思うが、人は年をとればとるほど、苦みをおいしいと感じるようになるという。確かににそうだ。成功体験のある人間は、多分、苦みをおいしいと感じることができる人なのではないか?その酒の苦みの後にくる、眠気や、混濁を求めて酒をのんでいる訳ではないはずである。診断君は、飲み始めの苦みをうまいと感じる、そういう酒飲みでいつまでもいたいと思うのである。

2013年7月23日火曜日

タイ人という名の美徳

ここに、一枚の絵がある。誰が書いたか分からないが、私はこの絵を眺めるたびに、タイ人という名の美徳を感じ、見入ってしまう。

 人にものをあげる、人からものを貰う、そういう事が、ごく日常的に行われている国なのだ。人の世話になる、人の世話をする、そういう事が、彼らの文化の根底で、ともすれば脱線しがちな猥雑な人種、階級、貧富、職業という混乱を一点で繋ぎ止めているのだ。そして、その授受するべき、財産なり食糧なり資材は豊かである。そうでなくても、食うに困らない国に、日本はどんどん投資しているのである。タイ人は、貰い方もうまい。そしてうまいことその財産を運用する。税金払わない、支払い遅い、誰もそれを駄目とは言わない。空港を閉鎖しても、デパートを燃やしても、罰されないのだから、仕方がない。

 私は20年、タイでこうして働いてきたが、彼らはは本当にポーカーフェースである。物をあげた時は人懐こい顔で喜ぶが、自身の利害を損ねる状況では、徹底的な抵抗をする。当たり前ではあるが、こんな事象を当たり前として捉えるには、随分と時間がかかった。我々は、動物なのであるから、能動的になんでもやるのも当たり前ではあるが、ただ一点、仏教にすがり、その一点を大事に、皆が秩序を持って国が成り立ってきたのであろうか? 私が言いたいのは、タイ人の持つ、底無しの強さだ。彼らをなめてはいけないということである。上の絵のような生活を今も基本のところで続けているのである。足元がぐらぐらしている日本人とは強さが違うのだ。

 今いる会社、外資系の会社がゆえに、色々と管理上の脇の甘さもあって、いくつかの不正がのさばっているようで、ある意味前の会社の上司より酷い状態(彼は少なくとも、ある時期まで、拡販の邪魔はしなかった。)になり、長くいるタイ人が会社を私物化してやりたい放題、これを診断君も随分と頑張っては見たが、なかなか立場上これ以上の肩入れも出来ず、そうこうしている間に、古巣では、異常に安い材料、表面処理の価格を、上得意先だけではなく、その2次、3次サプライヤまでばらまくというヤケクソ戦法に出ており、(よく許可がおりたものだ) とてもではないが、プライドの高い欧州企業が、これに合わせる筈もなく、そろそろ私も、この会社は潮時かと思う次第である。恐らく、高硬度表面処理業界は、これからもっともっと、安売りに励み、熱処理と一緒で、世界で最も処理賃の安い国を目指すのであろう。

 本当に、こんな愚かな夢のない状況にいつまでも付き合っている訳には行かない。前の上司と一緒で、ここでもいつか、その不正が明るみに出るのであろう。要は誰も、本当に問題が明るみに出るまで、手を下さない。これだけ工場長が入れ替わっては、本来異常と考えて然るべきであるが、その一点にあまりリスクマネージメントは入らないようだ。節穴だらけである。数字しか見ていないのだから、仕方なかろう。

 このタイの表面処理業界は、本当の個人の技を要する硬質クロムは別として、価格だけのつまらない業界に成り下がりつつある。我々が売り歩く、新しい技術に耳を輝かせて聞いてくれた、タイ人たちは、もうすでに偉くなっている。そして、今行っても、価格の話しか出ないということだろうか?

 いずれにしても、自浄能力のない会社は滅びるのみ、それが日系であれ、欧州系であれ、営業の会社であれ、技術の会社であれ。 ここは、ある意味、技術の終着駅であろうか?タイ人という名の美徳の元に、我々はどれだけ躍らせれているのだろうか? 日本からどんどん中小企業が進出してきているが、正直勝算があるとは思われない。

 


 

 

発覚

前略 T専務様

 この度は、専務職をご退任されたとのこと、大変お疲れ様でございました。長い間の重責、多忙なる日々を思いますと、頭が下がります。小職は専務より20歳も年下で、会社に入ってから、専務にサラリーマンのイロハを教わりました。それこそ、甘い辛いから、明るい暗い、表裏善悪、色即是空まで。本当にお世話になった方が、こうして一線を退かれるかと思いますと、寂しい思いで一杯になります。一筆書かせてください。

 専務のおつきになられていた、熱処理事業部長というのは重要な役職であったと、今更ながら感心しております。なにしろ、T社を始めとする大手自動車メーカーが金型をどのように熱処理し、どのように表面処理するか?それを導き、提案し、世界各地にある熱処理センターを統括していくという、こういうことは並の努力では出来ますまい。椅子に座ってうたた寝して連休の遊びの計画ばかり立てている重役が多い中で、専務は常に現場に先陣を切っておられた。入荷出荷の金型を自ら検品し、熱処理歪を矯正し、工員と汗をかきながらジグ付けをされた。そんな専務のお姿を見て、どれだけ心強く思ったかお判りでしょうか?そういう方と一緒に17年もやっていたことを誇りに思っております。

 まあ、ゴルフに関しては、折角専務に教えて頂きましたが、私は本当に落ちこぼれ、未だに100切るか切らないかと寂しい状況です。専務のゴルフへの思い入れは、仕事中に抜けてプレイするくらいの熱心さで、我々も仕事が忙しく、生半可な気持ちでやっていましたので、随分怒られたものです。お客さんに、「それ入れたら、友達なくすで」と言われたオリンピック四階建てのパットを、専務が動じもせずカップに沈めて、危うく大口受注を逃すところだったことも、私の部下が別の日に同じようにそういうパットを入れようとして一言「それ入れたら転勤や」と圧力をかけ、実際に入れたところ、本当に転勤対象になったという、今思えば、公私混同の暗い情熱も、専務のゴルフに対する愛と、仕事に対する生半可な気持ちが成せる業だったのでしょうか?こんなことは誰にも真似ができない。ここまでのゴルフ好きは見たことがない。

 女性についても、随分と教えられました。タイに来た頃は、タニヤという歓楽街に会社のお金で、いつも連れていかれました。遊びというのは、自腹を切るもんじゃないんや!ああ、今でもそれが真似できない自分を歯がゆく思います。それを極限まで実践されたのが、タイの御愛人のコンドミニアムを、次々と駐在員の社宅とし愛人への小遣い節約、自らも出張旅費を節約するために出張時はその愛人所有のコンドに宿をとり、会社の資材と会社の従業員で、御愛人のコーヒーショップのベランダを作らせ、挙句の果てに独身貴族の部下を彼女の本夫に仕立て、会社を辞めさせるという荒技は、最早誰にも思いつくところではなく、(しかもこの方は、若くして亡くなってしまわれた!)私も会社を辞める時にプレゼンテーションまで作ってこのことを総務部長に説明をしたものの、あの聖人君子のTさんがそんなことするわけはないと一笑に付されました。こりゃ敵わない。確かにこんなこと誰も信じるわけない!逆らった私が馬鹿だった!

 今振り返ると、サラリーマンとして成功する秘訣をいつも背中で教えられてきたのに、それが実践できずに辞めてしまったことは、返す返すも、惜しいことをしたと思うし、自分が情けない。

このように華麗なる専務のご経歴ですが、最近ちょっと気になることを耳にしましたので、この場を持ってお聞きしたい。

 まさかとは思いますが、何かとんでもない不正が発覚して、それでお辞めになるのではないですよね?まさかそんなどんくさいことはしないですよね?しかも、それは、もしかして、以前私に、「熱処理屋がなんで加工の仕事もするんや?加工はもうやりたくないんや」 と言って、名古屋に飛ばされようとされましたが、つまりは、御自分とお仲間の利益に支障が出るからなんて、そんな理由で起こった転勤話ではないでしょうね? 私が色々な方面から入ってくる情報では、どうもそんな話なんですが、専務がそんなへまをやっているとは思えませんが、如何ですか? ご返信くれませんか?違うと分かれば、急いで、勘違いしている外部の方々に訂正をいれたい。

 タイ人の辞めた営業マン個人の会社に表面処理価格の、法外な値引きをしているようですが、これも、専務のお仕事ではありませんよね?あれなら、工場から直接買うより、彼から買った方が安いようですが???いや、そんなせこいことに、専務は絡みませんよね?やるとしたらもっと大きな悪事の筈だ。

 夜も更けてきました。久々のブログで疲れが出てきました。お返事をお待ちしております。 お気を悪くされないで下さい。不正はどこにでもあるようです。専務ほど巧妙なのは、聞いたことがありませんが..........





 

 

2013年1月21日月曜日

KOI AI

恋に狂うとは、ことばが重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
 ―― ハイネ    シェイクスピアの女たち

 やっぱり、診断君は、さっぱり分からない。愛がわからないとか、恋が分からないというのではなくて、人が、古人が、偉い作家が、愛と恋をどう使い分けているのかさっぱりわからないのだ。
恋も愛も、英語で引けばLOVEなんである。であるから、ハイネの言葉は可笑しくないか?同じ言葉をどう使い分けると、すでに狂気になるのだ。ハイネよ。

日本語で、愛と恋は、どこか微妙に使い分けている筈である。
診断君の常識範囲で言えば、愛とは客観的な表現に重きをおいており恋愛感情の発生後の持続的な確認という役割をもっているが、恋とは自己の内的な現象の表現に重きを置いており、まだそれほど熟成されていない初期の状態を表現しているのではと思う。また、それに伴う、衝動や人にいえない自分の感情の移り変わりも抱合していると思われる。

そもそも、愛とは、非常に広範囲で用いられる概念ではないか?

何か無形のものの繋がりに対して、その大きな理由付けに愛という言葉は用いられる。
地球とか、世界とかから始まって、国、年、学校、歌手、犬、家族、子供、親、祖父母、人間、すべてを愛という言葉でひとくくりにしている。そして、長年一緒にいる夫婦、恋人、すべてに及んで、時々、数ヶ月に一回くらい、愛しているんだよね、愛しているわよ、当たり前じゃない。とそんな当たり前のことを愛という言葉で終わらせているが、実はもっと複雑な説明すると何冊かのノートを費やしそうな内容も、何せ愛という言葉で行き止まりである。ウイキペディアで見ても、愛の説明は非常に少ないし、複数の問題があるらしい。それはそうだ。愛は便利だ。なんにでも使用できる言葉だ。
みんな、何の脈絡もなくそれぞれの親の元に生まれ、それを、共通の共感で結ぶには、愛とは便利な、無意味な言葉である。

お前にも子供がいるだろう。お前が殺したSにも子供がいたんだ。

だから、何だ?
だから、自分の子供を愛する感情はみな同じだ。その親を殺したお前がどれだけのことをしたかわかるか?だからもう馬鹿なことは辞めろ。
この説得の中央にあるのは、ウイキペディアでも複数の問題ありの(愛)である。

地球を恋しましょうとか、お父さんを恋してる、とか、子供を恋しているなんて言わないはずである。この言葉は、もっとデリケートに扱っているはずだ。それは行動を伴う本当の恋愛感情につながる言葉であるからだろうか?大体、こんな使い分けをわれわれは誰からも教わっていない筈だ。だけど、自然に使い分けている。英語辞書を引くと、どちらもLOVEである。大好きな姉ちゃんも、ニューヨークも、チーズバーガーも、LOVEである。何じゃこれは??

以下は辞書から引用である。

>『三省堂国語辞典』 第6版の「恋愛」は「恋」および「愛」を総合した定義である。同書では、まず>「恋」は「〔男女の間で〕好きで、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」、「愛」は「1.損得ぬきで 相手につくそうとする気持ち」「2.〔男女の間で〕好きで、たいせつに思う気持ち」と定義する。そして、「恋愛」は両者を合同した形で、「〔男女の間で〕 恋(コイ)をして、相手をたいせつに思う気持ち(をもつこと)」としている。

なるほど。恋愛という大きな言葉があり、恋と愛をそこから分けていくというオーガニゼーションはなんとなく正しいような気がする。大切に思う気持ち、このあたりが恋愛のコアな部分であるのであろうか?さすが辞書である。しかし、大切にしようとする気持ちを愛の定義とするのであれば、男女に絞る必要はないのではないか?だからこそ、愛という言葉は色々なところで使うことができるのであるから。満たされない気持ちを恋の定義としているところは、すばらしい。好きだ。会いたい。一緒にいたい。もっと知りたい。そして相手と自分の温度差からくる不満、満たされない気持ち。
若干の手直しは必要であるが、三省堂、なかなかやるね。
ここで、ハイネよ。恋は狂気か??


>また独自の記述で知られる『新明解国語辞典』第5版では、「特定の異性に特別の愛情を いだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられな いで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」と表現した。この記述では性愛の 側面を重視しており、また一方的な片思いでも恋愛は成り立つと解釈できる。第6版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むよ うな愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとで も疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」と改訂され、性愛についての記述は削除された。

 性愛、ああ、これを辞書が扱うことはこれはこれで、ユニークではあるが、我々はここで考えなくてはならない。三省堂の表現は綺麗には見えるが、対象を大切に思う気持ち、これは非常に正解と感じる。しかし、愛ではなく、恋は、ある面で、一方的な感情になる側面を持っている。それは新明解でいうところの一方的な片思いでも恋愛は成り立つであるが、それはある意味、相手を征服したいという感情に行き着く場合があるのではないか?恋愛感情の落ち着きどころには個人差があり、必ずしも、性愛を主体とはしていない。やはり相手を大切にしたいという部分がコアである。ところが我が物にしたいという気持ちもまた存在し、これを愛と呼べないこともあったりして、ここが非常に複雑である。

相手を大切にするということは、例えば、相手を思いやる気持ちというものが優先する筈であるが、ここで性愛という面を語ると、お互いに大きな温度差がある場合が多いのではないか?まず基本的に、診断君の知っている男性という生き物は非常に性欲が強い。性欲が薄い奴にあったことがない。で、彼女が出来て、毎日一緒に暮らして、恋愛とは相手を大切にすることであるという前提があって、でもかくかくしかじか、性欲という物理的現象が愛とは無縁のところで発生して、最後に相手に罵倒されて、あんた、そのことしか考えてないでしょ?と叱られる。 

 えてしがな、みてしがな、とかく恋愛感情は、まあ機からみたらみっともない。しかもひとつ間違えると征服欲となりかねない。そういう、不安定な状態。そういうどう転ぶか分からない状態。ちょっとみっともなくて、CMにも出来ない、危ないもの。恋愛感情は歌にするのがやはり望ましい。あんなみっともないことは歌でなければ、語れない。

思うに新明解の定義は、かなり狭義の恋愛である。恋愛のオーガニゼーションを語らないのも気に入らない。

このほか、『新潮現代国語辞典』などの辞典も異性間、男女間の関係や感情を恋愛と定義づけており、総じて国語辞典では異性愛を前提とした記述がされている。同性愛を「恋愛」と定義づけた記述は見られない。

 同性愛を愛の範疇に入れることができない??辞書とはなんであろうか?語れないことは無理にかたるべきではなかろう。

恋愛 
人間の生命に無くてはならない、しかしなくても生きていける、無形のしかしながら人間は有形にしたがる、感情。恋と愛に分かれる。しかし欧米人はLOVEしかないので日本人独特の感情表記ともいえる。


対象を大切にしようとする気持ち。信仰より広く、好感より重い。
R指定のない表現であり、家族、人類、子供、大人、老人、チーズバーガー、ニューヨーク、他に用いられる。恋というひとつの感情衝動に比べ、安定しており、常にそれの存在を確認する会話が行われる。会話中、作文、公共広告機構のCM、子供との会話、夫婦の会話(当たり前でしょうという付属語が多い。)、ロック歌手の雄たけび、など用途は多様だ。危険な思いをした時に思い出される場合も多い。
形容詞としての採用も多い。


内的に発生する、異性、あるいは同姓に対する、相手を知りたい、相手を大切にしようという気持ちを前提にもった非常に不安定な感情。相手との感情の温度差のために、大変不安定であり、そしてなおかつ危険な結果を招く側面を持っている。愛として、安定した状況に到達する場合もあれば、性愛のみとか、征服欲とか、ひどい時には、相手をチーズバーガーにして食べてしまうという例も過去に多発している。それらは、恋として発生したあと、その人の行動規範によって様々な形に変わっていくものである。そして、対象の前では、この感情はなるべく悟られないようにするのが、相手に感情を征服されない、奥義である。ハイネは狂気と表現したが、狂気にもなりうる感情であるが、理性との狭間で煩悶している人も多いので、狂気のみでは底が浅い。

 というわけで、大いに愛と恋を語った診断君ブログであるが、個人的には、
いちゃいちゃしたいが、べたべたは嫌、というごく普通の恋愛感を診断君は持っている。


2013年1月6日日曜日

験を担ぐ

2013年というのは、どうにも落ち着きの悪い年だ。この数字の何が悪いのか分からないが、結局のところ、診断君は偶数が嫌いなのだ。
診断君は4月6日生まれだが、こんな時は必ず、このふたつの数字を足してみる。すると、10になる。この数字を更に足すと1なので、奇数でOKということになる。TG728という便があっても一緒である。まず全部足すと17でそれを更に足すと、8になってしまう。この便は辞めようということになる。
機から見て、そうしたプロセスを分からないようにしているが、これを診断君は必ずといっていいほど行っている。ゴルフ場で、ロッカーの鍵を貰っても一緒である。92というキーを貰えば、おーこれは俺のベストスコアだなと喜ぶところであるが、上記プロセスを辿ると、2になってしまう。これでは、喜ぶどころか、悪いことばかり考え、心に霧がかかる。
女性の誕生日など、非常に重要な要素だ。何故、うちの奴と相性が悪いのか考えたところ、10月10日という誕生日は、最後に偶数になる数字なのだ。どおりでうまくいかないわけである。
こんなことを言っていると、何もしないうちから、ゲンを担いで、努力もしない云々と叱られるのだろうが、何もしないうちが、まずは重要であり、そこに数字という記号がある限り、まずは診断君は、そこから入って行ってしまうのである。
話戻って2013年であるが、最後に6になるわけで、嫌な年という事になる。
こうした験を担ぐ人というのは、ちょっと検索してみると、日本人の26%くらいの人々になるものらしい。7400万人の日本人は験を担がないのか?診断君には驚異の数字だ。で、験を担ぐ人がどういうことをするのかであるが、そもそも験を担ぐのは、何かうまくいったことがあって、その時のことを踏襲するという意味で辞書には書いてあるが、診断君にとっては、大体、そんなに凄い成功体験を験によって達成した覚えは全くないので、それよりもむしろ、これから取り組むことについて、失敗しないためのルールのようなものと解釈している。一体、人間は成功した時に、その前日の行動、はいていたパンツ、朝御飯、生理用品の商品名、髭は電気で沿ったか、クリームでそったかなどを検証したしかる後に験を担ぐものだろうか?
とはいえ、7400万人の人は、偶然与えられた数字にまつわる、鍵とか、相手とか、乗り物とか、そういうものを全く気にしないとは、驚きである。

以下に無断転載であるページに載っていた(日経)験を担ぐという例を並べて、診断君の感想を添えてみる。
  • 当日の占いのラッキーカラー・アイテムを身に着けて出かける
    >>ありえない。色で験を担ぐのは分からない。女の子に多いのだろうか?
  • 水晶を手に持って気持ちを落ち着かせる
    >>水晶を持っていないのでなんともいえないがやってみてもいいかも知れない。
  • 訪問先のビルのトイレに入ってから訪問する
    >>以前、お客さんのトイレで大をすると、新規がとれるというジンクスを使っていたが、そうなかなか、お客さんのトイレが綺麗ということはない。
  • 朝起きてすぐラジオ体操第1を3回繰り返す
    >>これは手間のかかる験だ。験のための験という人生である。
  • 契約サインをもらう専用のペンを持っておく
    >>しそうで、しない?契約をする時には、全てが決まっており、何故そこで験を担ぐのかわからない。
  • 「人」の字を手のひらに3回書いてなめる
    >>汚い。なめた後の手が臭い。
  • 前日の夜にカツ丼を食べる
    診断君の場合、納豆卵がけご飯がこれにあたる。これは非常によく分かる。大事な日の前に食べるものは重要だ。間違ってもマクドナルドなど食べない。食べるとしたら、ノーマルバーガーであり、バンズとハンバーガーで足して3である。カツ丼は切り数に注意したい。偶数であることを発見した時の気持ちは最悪だ。
  • 前日は絶対に爪を切らない
    >>夜に爪を切るなとか言いますね。診断君は、いつも問題が幾重にも重なる時には、髪の毛と、爪に注目している。これを伸ばしたままにしておくと、何故か問題は更に増加していくので。前髪は切る必要がないが。
  • ゴムのしっかりしたパンツをはく
    腹が腹だけに緩むことはない!(なんか自虐ネタが続きむかつく。)
  • 好きな色の下着を着ける
    ????
  • 大事なことの前日はセックス(マスターベーションも含む)しない
    このことは、非常に重要なことであるから、行を割くが、やはりメンタリティとして、真面目に何とかこのことを成功させようとしている時に、こうした性行為を行うことで、己の心金が曲がる、緩む、崩れるという思いは、正直ながらあるのであるが、しかし何かの本で読んだが、人間は、命の危険を感じれば感じるほど、こうしたことをしたくなる生き物であり、生命の防衛反応がこんな時ではありますが、子孫を残すために、ガンバレと拍車をかけるのであろう。映画でもそうであるが、007なんか、あれだけ死にそうな目にあっても結局一緒に逃げているパートナーと最後は船の上でそれでは...なんてことになるわけで、経験上で行ってもなんか疲れれれば使えるほど、気分は絶好調に盛り上がっていることも多く、逆に女性は疲れに素直で、古代から、男性は明日死ぬかもしれないという一発を(女性読者には失礼、これ以外の表現が見つかりません)歴史の上で何度も経験しているのであるから、やっぱりこの験はおかしいということであるが、これは日本人の独特の言霊信仰とも由来して、なんか大事な日の前にそんなことしてたら神様が見てて(見てる神様も神様だが)バチかぶるん違う??というところもあるのではないか?
    とにかく、女性は、疲れた、死にそうだ、明日は大勝負だなどと言っている男には近づかないほうが無難であろう。
  • すべて右から始める。靴下も右から。靴も右から。袖を通すのも右から
  • 利き手、利き足で行動を開始する
    >>上記二つ、分かります、分かりますが、右利きなら右から始めるんじゃないの?
  • 朝風呂に入る
    >>これは受験の時にしました。一浪しましたが。
  • 仏壇に手を合わせる
    >>これはもう、験を担ぐというか、信仰ではないか?日本人に験を担ぐと見えることは、タイにおいては信仰である。ちょっと日本人、無宗教すぎて寂しい。
  • 朝、お茶に梅干しを入れて飲む
    >>焼酎には入れますが。二日酔いしません。
  • 隣の神社にお参りしてから出かける。
    >>これも仏壇と一緒で、何か悲しい。これは験担ぎではない。
  • 決めてある勝負服を着て気合を入れる
    >>なんとなく分かります。同じワイシャツですが、若干のローテがある。
  • 栄養ドリンクを飲む
    >>理解できます。
    .......ちょっと日経、底が浅い記事なんですが??験担ぎ、たぶんもっと凄いのがある筈である。
ちなみにウイキペディアには、
  • 試験前に爪を切らない
  • 朝起きたらすぐにラジオ体操をする
  • 塩を盛る
  • お茶を飲まない
とあった。
結局のところ、験を担ぐというのは、これから起こることの不確実性に、一定の行動ルールを当てはめて、それを遵守すること。あるいは、もしそれをしなかった時に、しまった、あの時ああだったからなあと臍をかむ為の一定基準ということが言えるだろうか?
7400万人の験を担がない人はどうなのだろうか?いい事も、悪いこともすべて、起こるべきして起こり、努力の結果であるというのであろうか?
 験を担ぐことと、宗教信仰を混乱しているのであるから、そういうこともありうるのかもしれない。


2013年1月5日土曜日

カウントダウン

グズグズしている間に、2013年を迎えてしまった。
何かしなくてはと思いながら、畳の上を行ったり来たり、祖母からヨッちゃんオヂヅケと叱られた。
真夜中2時に目が覚めて、さて、すっかり目が冴えて、とにかくとりとめもない計画をノートに書き散らして、それがあたかも大事であるかのように溜息をつき、物差しで長い長い線を何ページにも渡って書き上げて、気が付けば外は靄、地面はシンと雪一色、現実とは厳粛な夢である。
年中、皆はそれぞれに勝手に、泣いたり、喚いたり、貧しさに喘いだり、あまりの幸せに、担田あたりが痒くなり、グラグラ、ゆらゆら、誰も人のことなど本気で考える余裕もなく、道端でガス欠の私のトヨタを尻目に、皆が帰途を急ぎ、アクセルを強く踏み込み、たまに奇矯な思いでパッシングを浴びせ、時にサディスティックにクラクションを浴びせ、気が付けば冷たい雨に生暖かい涙が交じり、あああんな思いは二度としたくないと臆病になるわけであるが、さあ、年末だ年始だと皆が集まるにつけ、妙なくすぐったい感動というか期待感というか、バラ色の夢らしきものがあまく香りだし、どんなに絶望しても、来年も生きて行きましょうねと、毎年同じことを繰り返しているが、そのリピートを超える絶望がいつかそれを止める日もくるのだろうか?
私たちは、21世紀という、未来の世界にいきているが、この世界では、人間の内面や、日常、交友、交際を簡単に記録し、公開することのできるシステムが幾つか整っており、まあ、そういう意味での進歩は遂げており、火星におりたったり、海王星を旅したり、車が地面を浮いて走ったり、小さくなって血管の中を泳ぐまでには今日までに至らなかったが、人間の生活、個人の立体性をここまで知ることができたのは、大いなる人類の足踏みというべきであろう。
あの彼女の、長いつけまつ毛、青痣のようなシャドー、高い背の、手に収まるようなか細い腰の、20才を過ぎたばかりのそのため息に、人類の進歩は、謎を謎として留めず、私は、その赤いビロードのオルゴールの箱の奥にある、そのまた奥底の澄んだセセラギニ、か細く聞こえる途切れ途切れの詩吟。ああ、そうであったのか、そんなことがあったのか、そういうことに耐えていたのか、それを健気に待っていたのか、と、そこまで知ると恐ろしくなり、長く佇み覗き込んだ深い深い井戸のふたを厳かにしめ、振り返ると、あら、どうしたの? あなた、ひどい汗をかいているわ?と無邪気に笑うので、私は深く彼女を抱きしめ、耳を熱い吐息が包み、気が付けば54321、2013年の鐘の音。