2013年7月28日日曜日

酒に飲まれる

 大学のサークルの先輩で、その時は既に大学院に居られたY先輩は吉祥寺の酒屋の跡継ぎで、酒屋と言っても大きな問屋みたいな感じで、ちゃんとしたビルがあり、配送車も何台も並んでおり、一角の規模のお店であった。
 
 年末になると、サークル部員がそこに集まり、毎年のように忘年会を執り行った。これでもかといういい酒が並び、アテは持ち込みもありの、出前の寿司などもとり、カラオケは今も忘れない、JVCのレーザーディスクに負けてしまった、その頃でもちょっと珍しくなったシステムではあったが、これで夜通し歌ったものである。(確かレコード見たいのが箱に入っていたと思う。)

 映画を鑑賞し、作り、語り合い議論する、文科系のサークルであったが、どう考えても、思い出の7割が、酒の記憶である。よく酒を飲むと、記憶がなくなるとかいうが、酒を飲んだ記憶しかないというのはどういう訳であろうか?

 樽酒というものを、その時飲んだが、あの樽を開けた表面に浮かぶ酒粕、それをよけて升につぐ限りなく澄んだ液体、あれはうまかった。なんという銘柄かは忘れたが、米がここまで澄んだ飲み物を作り出すものなのか?と感動した覚えがある。

 なんにせよ、その頃も大学生が新入歓迎コンパなどで、急性アルコール中毒などで死亡することもあったので、すでにうるさい時代ではあったが、それでも、先輩、後輩の関係は強く、とにもかくにも、飲め、飲め、吐きそうなら、吐いてから飲めと、狂ったように飲んだ記憶がある。同級生に、子供の頃から、喘息の奴がいたが、彼など、よくこの忘年会で死ななかったものである。

 飲み、歌い、騒ぎ、吐き、気を失い、目が覚めると、1月の2日なんてことは何度もあった。目が覚めると、開催場所のオーナーである先輩が、ニコニコと温かい何かを食べさせてくれたか、飲ませてくれた覚えがある。酒を巡る鉄の掟と、年が明けた後の覚醒、癒し、汚れた体で、吉祥寺から、多摩の下宿まで帰る時の、浦島太郎みたいな、実社会への違和感。 ああ全ては20年以上も前の出来事なのである。

 酒は高校の時から飲んでいたし、教室の後ろの方で化学の時間にファンタと宝焼酎を混ぜて飲んで、(その先生が若く、甘かった。)放課後に、酔っ払って泡消火器を倒し、教室を泡だらけにしたこともあった。柔道部の友人H君と、今はもう連絡の取れない親友のT君と焼酎、ビール、電気ブラン??をもって、豊島園に行き、飲んだ状態で、バイキングやら、ねじれながら1回転するジェットコースターにのり、鼻水なのか、吐物なのか、涎なのかわからない液体が体を包みながら、気を失ったりして、まあ、今思うと凄まじいが、酒で記憶がなくなっているというよりは、今もまだ鮮明な思い出である。

 大学に入って、皆に言われたのは、君は酒を飲んでも顔色ひとつ変わらないなということであったが、果たして、これがいいことかどうかは、ともかく、限界まで酒を飲むという環境は、大学に入って更にエスカレートしたことは事実である。

 会社でも、酒というものはついて回っているが、40の手前あたりから、肝脂肪で引っかかるようになり、そんな引っかかり方をすると、飲むたびに肝臓が悲鳴を上げているような気がして、酒飲みのお客さんに、おいどうしたと言われ、最近肝臓の調子が悪いんですよと左の鳩尾をさすると、おい肝臓は右だ、もっと飲め!という具合に、ますますブレーキが利かなくなり、今日に至る次第である。

 酒に飲まれる、診断君はそういう人を沢山見てきた。酒を飲んだがために、翌日は会社にこない、酒を飲んだがために、羽目を外し、常識を逸脱したことをしてしまう、警察の厄介になる、酒を飲んで記憶を失う、飲んでない時でも、失っていく、酒を少しもおいしそうに飲まないのに、酒がなくてはいられない、酒、酒、酒、本当に、こいつには、随分と助けられているが、随分とこれにやられちゃっている人が多いのも事実だ。津波も、洪水も、人間を構成する物質も命も水のなせる業だとしたら、人間の歓喜も、狂気も、人生を快調に滑らせることも、その人の能力を発揮できない障害になることも、全て、酒のなせる業である。

 この年になって、酒のキャリアもつみ、味も分かってきたように思うが、人は年をとればとるほど、苦みをおいしいと感じるようになるという。確かににそうだ。成功体験のある人間は、多分、苦みをおいしいと感じることができる人なのではないか?その酒の苦みの後にくる、眠気や、混濁を求めて酒をのんでいる訳ではないはずである。診断君は、飲み始めの苦みをうまいと感じる、そういう酒飲みでいつまでもいたいと思うのである。

0 件のコメント: