2013年1月21日月曜日

KOI AI

恋に狂うとは、ことばが重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
 ―― ハイネ    シェイクスピアの女たち

 やっぱり、診断君は、さっぱり分からない。愛がわからないとか、恋が分からないというのではなくて、人が、古人が、偉い作家が、愛と恋をどう使い分けているのかさっぱりわからないのだ。
恋も愛も、英語で引けばLOVEなんである。であるから、ハイネの言葉は可笑しくないか?同じ言葉をどう使い分けると、すでに狂気になるのだ。ハイネよ。

日本語で、愛と恋は、どこか微妙に使い分けている筈である。
診断君の常識範囲で言えば、愛とは客観的な表現に重きをおいており恋愛感情の発生後の持続的な確認という役割をもっているが、恋とは自己の内的な現象の表現に重きを置いており、まだそれほど熟成されていない初期の状態を表現しているのではと思う。また、それに伴う、衝動や人にいえない自分の感情の移り変わりも抱合していると思われる。

そもそも、愛とは、非常に広範囲で用いられる概念ではないか?

何か無形のものの繋がりに対して、その大きな理由付けに愛という言葉は用いられる。
地球とか、世界とかから始まって、国、年、学校、歌手、犬、家族、子供、親、祖父母、人間、すべてを愛という言葉でひとくくりにしている。そして、長年一緒にいる夫婦、恋人、すべてに及んで、時々、数ヶ月に一回くらい、愛しているんだよね、愛しているわよ、当たり前じゃない。とそんな当たり前のことを愛という言葉で終わらせているが、実はもっと複雑な説明すると何冊かのノートを費やしそうな内容も、何せ愛という言葉で行き止まりである。ウイキペディアで見ても、愛の説明は非常に少ないし、複数の問題があるらしい。それはそうだ。愛は便利だ。なんにでも使用できる言葉だ。
みんな、何の脈絡もなくそれぞれの親の元に生まれ、それを、共通の共感で結ぶには、愛とは便利な、無意味な言葉である。

お前にも子供がいるだろう。お前が殺したSにも子供がいたんだ。

だから、何だ?
だから、自分の子供を愛する感情はみな同じだ。その親を殺したお前がどれだけのことをしたかわかるか?だからもう馬鹿なことは辞めろ。
この説得の中央にあるのは、ウイキペディアでも複数の問題ありの(愛)である。

地球を恋しましょうとか、お父さんを恋してる、とか、子供を恋しているなんて言わないはずである。この言葉は、もっとデリケートに扱っているはずだ。それは行動を伴う本当の恋愛感情につながる言葉であるからだろうか?大体、こんな使い分けをわれわれは誰からも教わっていない筈だ。だけど、自然に使い分けている。英語辞書を引くと、どちらもLOVEである。大好きな姉ちゃんも、ニューヨークも、チーズバーガーも、LOVEである。何じゃこれは??

以下は辞書から引用である。

>『三省堂国語辞典』 第6版の「恋愛」は「恋」および「愛」を総合した定義である。同書では、まず>「恋」は「〔男女の間で〕好きで、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)」、「愛」は「1.損得ぬきで 相手につくそうとする気持ち」「2.〔男女の間で〕好きで、たいせつに思う気持ち」と定義する。そして、「恋愛」は両者を合同した形で、「〔男女の間で〕 恋(コイ)をして、相手をたいせつに思う気持ち(をもつこと)」としている。

なるほど。恋愛という大きな言葉があり、恋と愛をそこから分けていくというオーガニゼーションはなんとなく正しいような気がする。大切に思う気持ち、このあたりが恋愛のコアな部分であるのであろうか?さすが辞書である。しかし、大切にしようとする気持ちを愛の定義とするのであれば、男女に絞る必要はないのではないか?だからこそ、愛という言葉は色々なところで使うことができるのであるから。満たされない気持ちを恋の定義としているところは、すばらしい。好きだ。会いたい。一緒にいたい。もっと知りたい。そして相手と自分の温度差からくる不満、満たされない気持ち。
若干の手直しは必要であるが、三省堂、なかなかやるね。
ここで、ハイネよ。恋は狂気か??


>また独自の記述で知られる『新明解国語辞典』第5版では、「特定の異性に特別の愛情を いだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられな いで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」と表現した。この記述では性愛の 側面を重視しており、また一方的な片思いでも恋愛は成り立つと解釈できる。第6版では、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むよ うな愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとで も疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」と改訂され、性愛についての記述は削除された。

 性愛、ああ、これを辞書が扱うことはこれはこれで、ユニークではあるが、我々はここで考えなくてはならない。三省堂の表現は綺麗には見えるが、対象を大切に思う気持ち、これは非常に正解と感じる。しかし、愛ではなく、恋は、ある面で、一方的な感情になる側面を持っている。それは新明解でいうところの一方的な片思いでも恋愛は成り立つであるが、それはある意味、相手を征服したいという感情に行き着く場合があるのではないか?恋愛感情の落ち着きどころには個人差があり、必ずしも、性愛を主体とはしていない。やはり相手を大切にしたいという部分がコアである。ところが我が物にしたいという気持ちもまた存在し、これを愛と呼べないこともあったりして、ここが非常に複雑である。

相手を大切にするということは、例えば、相手を思いやる気持ちというものが優先する筈であるが、ここで性愛という面を語ると、お互いに大きな温度差がある場合が多いのではないか?まず基本的に、診断君の知っている男性という生き物は非常に性欲が強い。性欲が薄い奴にあったことがない。で、彼女が出来て、毎日一緒に暮らして、恋愛とは相手を大切にすることであるという前提があって、でもかくかくしかじか、性欲という物理的現象が愛とは無縁のところで発生して、最後に相手に罵倒されて、あんた、そのことしか考えてないでしょ?と叱られる。 

 えてしがな、みてしがな、とかく恋愛感情は、まあ機からみたらみっともない。しかもひとつ間違えると征服欲となりかねない。そういう、不安定な状態。そういうどう転ぶか分からない状態。ちょっとみっともなくて、CMにも出来ない、危ないもの。恋愛感情は歌にするのがやはり望ましい。あんなみっともないことは歌でなければ、語れない。

思うに新明解の定義は、かなり狭義の恋愛である。恋愛のオーガニゼーションを語らないのも気に入らない。

このほか、『新潮現代国語辞典』などの辞典も異性間、男女間の関係や感情を恋愛と定義づけており、総じて国語辞典では異性愛を前提とした記述がされている。同性愛を「恋愛」と定義づけた記述は見られない。

 同性愛を愛の範疇に入れることができない??辞書とはなんであろうか?語れないことは無理にかたるべきではなかろう。

恋愛 
人間の生命に無くてはならない、しかしなくても生きていける、無形のしかしながら人間は有形にしたがる、感情。恋と愛に分かれる。しかし欧米人はLOVEしかないので日本人独特の感情表記ともいえる。


対象を大切にしようとする気持ち。信仰より広く、好感より重い。
R指定のない表現であり、家族、人類、子供、大人、老人、チーズバーガー、ニューヨーク、他に用いられる。恋というひとつの感情衝動に比べ、安定しており、常にそれの存在を確認する会話が行われる。会話中、作文、公共広告機構のCM、子供との会話、夫婦の会話(当たり前でしょうという付属語が多い。)、ロック歌手の雄たけび、など用途は多様だ。危険な思いをした時に思い出される場合も多い。
形容詞としての採用も多い。


内的に発生する、異性、あるいは同姓に対する、相手を知りたい、相手を大切にしようという気持ちを前提にもった非常に不安定な感情。相手との感情の温度差のために、大変不安定であり、そしてなおかつ危険な結果を招く側面を持っている。愛として、安定した状況に到達する場合もあれば、性愛のみとか、征服欲とか、ひどい時には、相手をチーズバーガーにして食べてしまうという例も過去に多発している。それらは、恋として発生したあと、その人の行動規範によって様々な形に変わっていくものである。そして、対象の前では、この感情はなるべく悟られないようにするのが、相手に感情を征服されない、奥義である。ハイネは狂気と表現したが、狂気にもなりうる感情であるが、理性との狭間で煩悶している人も多いので、狂気のみでは底が浅い。

 というわけで、大いに愛と恋を語った診断君ブログであるが、個人的には、
いちゃいちゃしたいが、べたべたは嫌、というごく普通の恋愛感を診断君は持っている。


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