2011年1月27日木曜日

デジャブ

全く今まで訪れたことのないところに来て、これはいつか見たことのある
風景だと感じることをデジャブ(既視感)というのである。
逆に毎日見慣れた風景であるのに、それが初めてみたもののように
感じることをジャメブ(未視感)という。

こうした不思議な感覚は、あまり霊感も鋭くなく、毎日見えるものしか見えない、
聞こえるものしか聞こえない、そういう平凡な診断君でも、これはデジャブ
 かな?という感覚だけは良く覚えるのである。

デジャブを感じた時、しかし、それは以前の何かあった時の塗りなおしの
ようなことが起きていて、だからあの後は悪いことがあったとか良いことが
あったとかの感覚が沸き起こり、良いことがあったときは、期待感が、
悪いことのデジャブは、警戒感や不安感が高まるものである。

上記を要約すると、見た覚えのないものを見たような気がする。
見たことの在るものが初めてみたものに見える、というこうした心の
錯覚は、例えば同じ300ヤードのパー4で打ち下ろしなら短く、打ち上げ
なら長く見えるという目の錯覚が心の感覚の中にも起こり得るので
あれば、それは人間機能の至極ありがちな日常的バグであるとも言える。

ではこうした感覚は味覚や、聴覚にもあるのであって、そうしたバグが
時に人間を楽しませたり、悲しくさせたりするのではないか?

我々は、完全にこの世界を五感で把握しきっているという錯覚の元に
生きており、それがために、その脆弱な地盤が時折露呈して、悲しい思い
楽しい思いをするものではないのか?

ここで重要なのは全てのこうした錯覚が受身の感覚であるのに対し、
それをもって、人間は今後の重要な判断を下すということである。
時にこの錯覚は一人の人間の内的な現象にとどまらず、或いは
大衆心理とも言われる中で発生する場合もあるのである。
人間の行動基準に錯覚と呼ばれるものは稀ではなく、むしろほとんど
ではないかと考えるべきであろう。例えば
1.自分の旦那は浮気はしない。
2.自分は会社で最も役に立っている人間。
3.会社は自分を重用している。
4.真夜中にメールを送れば仕事をしていると思われるに違いない。
5.腕まくりして現場に行けば、仕事をしている証。
6.あいつは多少いじめても、手を噛むようなことはしないだろう。
7.景気はどんどんよくなるだろう。
8.自分は大会社の重役、サプライヤは自分を尊敬している。
等等

錯覚がために、周りがまたその外観を錯覚し、あいつは出来る奴と
祭りあげ、出来もしない顧客へのプレゼンに一人で行かされ、散々
突っ込まれた挙句、誰もフォローしてくれませんでした、えーーん
なんて結果になるのがおちなので、錯覚するのはともかく、錯覚を
利用して社会の評価を得るのは、辞めたほうが良いだろう。
朝は朝であり、晩は晩である。皆が寝ているから、起き、皆が起きて
いるから寝るというような錯覚を利用した売名行為は、情けない。

さてここで重要なのは、錯覚は、全ての時系列の事象にほぼ起こりうる
現象なのであり、それがデジャブでもメジャブでもあるはずである。
ただ、その時感じた不思議な感覚が、やはり特別な感情を呼び起こす
ことは事実である。錯覚>感情>行動 という人間の営みは、
それこそ無数に行われているだろう。だが事実の完全な把握という
行為をその中の針の一点からあぶりだすことが、仕事の上では非常に
重要なことであるといえる。

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