2012年11月1日木曜日

容認2

ああー、今日も本当に疲れた。さあ帰るかあ。今から地下鉄で8駅、池袋で乗り換えて1時間20分の自宅に帰るぞー。そんなんシラフで乗ってられっかよー。耐えられるわけないじゃん。ちょっと池袋で一杯飲んでから帰るかー。

んで、さてと気合入れて、今から急行乗るぞー。みんな疲れてんね。おっさんは当然、若者も、お姉さんも、ぐったり寝ておられます。本当にご苦労さんです。真っ暗な車窓からは、家の灯りがポツリ、ポツン、テンテンテン時々踏み切り、ガラガラガラ、入間川を渡りました。

電車の中の広告を眺めて見れば、まずは週刊誌、次にマンション、分譲住宅、駅から徒歩3分って、その駅から目的地まで何分なんだよー、池袋まで座って行けますって、どれだけ早起きすればいいんだよー、そしてまた目に入る、多重債務を整理しませんかっていう広告、塾、エトセトラ。お先真っ暗。

こんな時でも元気なのは若者だ。途中の駅から乗ってきて、みんな元気だ。なんだ皆、いい子ばっかりじゃないか?最近の学生は、どうたらこうたら、そんないつの時代も言われてきたが、どうだろう。やっぱり彼らは日本の未来を背負ってたってるね。目指すところが違う。頑張って、大人になれよ。隣にいる大人の姿はとりあえず、無視しとけ。大人になっても、満員電車さ?いや容認か??

東京都をでれば出るほど、駅と駅の間隔は広がり、停車駅の身にしみる寒さ、寂しさ、ああこれが、埼玉県である。椅子に座って寝ているお姉さん、皆、能面のように寝ていらっしゃるが、まあたまには、寝言いってにやにやしたり、歯軋りしたり、そういうのもありではないかな。おじさんは君たちの、柔らかい寝顔に癒されたいのだけれど、この時代癒しも有料だからね。

尾羽うち枯らしてという言葉がよく似合うおっさんは、結構途中駅から乗ってきて、まあ服装から言って、両横に山の稜線、なんとも場所をとる様な雰囲気であるが、すでにこのあたりでは、かなりの人が降りているので、それほど、違和感もなく、またそれを軽蔑するような風情で、少しだけまともなオッサンが、俺はまともに仕事してるんだとばかりに、ビニール傘を、まっすぐに立てて、一線を画しているのも、またなんとなく哀れである。こういう、感情は、朝非常に早起きして、同じ電車に乗っている面々にも感じるもので、なにより、このような途中の駅で働いているという勤務先、朝こんなに早くから働かなくてはならない、その人の一身上の都合とやらに思い当たるに、憂鬱が診断君の心を更に、覆うのである。

ここで読者はお気づきであろう。診断君の容認批判とは正に、神の視点にあるもので、小さい頃からそうであるが、どこか上から目線で、大衆を眺め、手にとり、哀れみ、慈しみ、蔑み、そのちっぽけな彼らが、何故この状態を容認しているのであろうと心中、いらいらしつつ、一線を画してきた、不届きな人間である。

であるから、日本では生きて行けず、こうしてタイに20年もいついてしまったものと思われる。であるからこそ、今度はタイ人社会が容認しているものを、神の視点で、あれこれと品評して、毎日生活しているものです。ピックアップの荷台のタクシーとか水溜りで営業する屋台のラーメンとか、繁華街で這って物乞いする乞食とか、エトセトラ。

診断君などという生意気な名前も正にそういうところに由来しているのかと、ここまで書いてはたと気づいたものであるが、大衆が容認する大衆社会での労苦、これは 診断君の侮蔑の対象。何故それを容認して生きて行けるのか分からない、しかし、診断君がこの社会を診断君のわずかな人生の中で変えていけるものでもなかろう、従って、100年くらい未来の読者の皆様には、この診断君の神の視点もあったんだねえーというくらいに思って頂ければ、幸いである。それから、診断君の足跡をたどったり、卒論のテーマにしたり、女性関係を調べたり、診断君で本を書いて儲けたり、まあ、そういうことは自由であると、この文章をもって未来人に許可を与える次第である。

0 件のコメント: